FmFm(ふむふむ)の独り言

自分のことを気楽につぶやくブログです。

コミュニケーション力って

 「コミュニケーション力=相手と話す能力」と思われがちだと思う。相手とたくさん話せたらコミュニケーション力があるとか、もっと言えば相手を論破できたらコミュニケーション力があるだとか、そう思われているような気がする(私だけ…?)。確かに相手に何かを伝える力も大切なことなのかもしれないが、コミュニケーション力は話すだけでなく、相手を「聴く」力も含むことを私は強調したい。しかもそれは単に「聞く」のではなく、相づちを打つだとか、納得した際にうなずきや共感を心から示すという「聴く」姿勢だと思う。正直私自身話すことはどちらかというと苦手な方だ。しかし、あなたの話をしっかり聴いているよという反応を大きく見せることで、本当に人は安心するものなのだ。

 高校時代、とある女の子の友人と話をしていて、私の話を一つ一つうなずきながらしっかり聴いてくれたことがあった。その時の安心感は言葉に表せないほどである。以後、私は「聴く」時の反応やうなずきには気を配るようにしている。話すのが苦手だと思っているそこのあなた、まずは「聴く」ことの大切さに気付いてみませんか?共感的に、思いやりをもって聴けば、自然と話すことにも苦手意識を感じなくなる…かもしれませんね。

集団の分析

 これまで様々な集団に属してきた。学校のクラス、部活動、ムカデ会(←?)…。集団はその人数が多ければ多いほど変化が激しくなる。知らないうちにAさんとBさんが仲良くなっていたり、CさんとDさんがけんかをしていたり、いつの間にかEさんがリーダーシップを発揮していたり。それは人間の個性があるから生まれるものであって、全員同じ性格、同じ好み、同じ考え方の人間ばかりが集まっていたら面白くない。統率する面では効率が良いかもしれないが。私もかつていろいろな集団をまとめる立場にあったし、これからそういった職業に就く。

 今から約3年前だろうか。80人の学生仲間を4つのグループに編成する作業を引き受けた。その80人はたった1年間しか共に過ごしていない仲で、私も全員の交友関係を知り尽くしてはいなかった。だから、80人に聞くしかなかった。「仲の良い人はだれですか」「一緒にグループになりたい人はいますか」このグループ編成は、その後の学部の行事をより活性化させるための試みだったので、私にはこうするしかなかったのだ。結局グループができたが、やはり反対する人は何人かいたようだ。申し訳ない気持ちと、情けない気持ちしかない。

 ここで思ったのが、集団は集団を作る人たち自身で良いものにする必要があるということ。性格も違う、考え方も違う人たちが集まる中、その違いを認めながら一つのことに取り組んだり、協力体制を作る。だれかを排斥しようとか、自分は関係ないという意識が生まれては逆効果だ。後は、常に安心していられる集団も必要だな。この人たちと一緒だったら楽しいとか、幸せだとか。だれかに嫌われていそうで怖い、という思いは作らせたくない。私は割と周りの目線だとか、周りの人がどう考えているのだろうと気になってしまう人だから、なおさら大事にしたいところ。学校は集団を強く意識することができる場であると思う、子どもも教員も。より良い集団を作るための教員の役割はとても難しいことかもしれないけれど、子どもたちを育てていく中で、集団にいることと役割を果たすことの大切さに、彼ら自身が気づくことができるような指導をしていくことが必要なのだろうね。

かすみつき

 「日本の女性は美しい」といつぞやのCMで叫ばれたことがあるような気がする。多くの女優さんが活躍する中で、私が良いなあと思うのはこの2人かな。あまりこんなことは公で言わないのだけど。でもせっかくの機会なのでつぶやいてみる。

 有村架純高畑充希。まず2人の中の良さに憧れる。私にも1人親友と呼べる友人がいるけど、この2人のような関係であれたらと思う。適度に仲が良く、適度にじゃれ合えるというか、分かり合えるというか…。うらやましい。有村架純を好きになったのはその清純さからだろうか。顔がかわいいのも理由の1つだけど。ビリギャルを見て自分も勉強を頑張ろうと思えたこともあった。朝ドラも毎日ちゃんと見たかったけど、早くからそうはいかなかったのが残念なところだ。高畑充希を好きになったのも割と最近だけれど、彼女に魅了されたのは、女優としての魅力だけでなく、歌手としての歌声や響きだった。まっすぐで、曇りのない、のびのびとした歌声。まるでどこまでも広がっていくような。一度聞いただけで好きになった。私もこんなふうに歌えたらと思わずにいられないし、よく彼女の歌を聞いている。女優の顔と歌手の顔。いろいろな分野で活躍できる存在に私もなりたい。

 ちなみに、曲で大好きなのは、1位:木蓮の涙/2位:ひとつだけ/3位:大切なもの/4位:101の涙/5位:夏のモンタージュ かな。全部お気に入りなのだけどね。

好きなことで生きていく

 「なぜ教員になろうと思ったのですか」。教員に限らず、様々な面接でその職種を希望する理由は問われるだろう。教員になりたいと思う者、あるいは既に教員である方々は、なぜ教員になりたいのか、あるいはなったのか。いろいろな人に聞いてみたい思いが少しある。その中に、こう答える人は少なからずいらっしゃるに違いない。「教えることが好きだから」。こう答える方は、「好きなことで生きていく」あるいは「生きて」いこうと決断している人だと思う。

 以前つぶやいたかもしれないが、夢を持つことは素晴らしいことであり、その内容は人それぞれ。そうした中で、趣味や特技を夢に生かしたいと考える人は、夢を叶える過程も、夢を叶えた結果も、心から楽しく充実している人生だと思えるに違いない。近頃子どものなりたい将来の夢に、YouTuberというものが表れて、日本の将来は心配だ、という声がささやかれているようだが、まずはどんな夢であれ、夢を叶えるために努力が必要であることを、教員が子どもたちに伝えなければならないと思う。そして、夢や目標を叶える、あるいは見つけるために教員がすべきことは、子どもの長所に子ども自身が気づき、それを生かしたいと思えるような手助けをしてやること。これが子どもの夢につながる。YouTuberだけでなく、僕だって、私だって、「好きなことで生きてい」けるのだという子どもを育てたい。なぜならこれをつぶやいている私が、この先「好きなことで生きてい」けるのだから。私の趣味はいろいろあるけれど、「人に何かを教えること」そして「教えた後の気づきや喜びを実感し、共有すること」だ。子どもたちは勉強するだけでなく、「好きなこと」探しに没頭することも大切なことなのかもしれない。あ、ここで決してYouTuberという職業を批判しているわけではないですよ。

 (おまけ)私が教員以外で今なりたいなぁと思う職業は、歌手、画家、水泳選手とかかな…。(笑)でも変な話、YouTubeに何か投稿して、それがものすごい再生数を稼いだら…なんて思う時もある。教採の勉強をしている時なんか、自分の知っていることを講義形式でYouTubeに投稿したら…なんて。やらないけどね。(笑)

目指すはブラックジャック

 今の自分は教員になりたくて、採用試験を受けて、その夢を叶えてはいるけれど、実際に教員になりたいと思ったのは中学3年あたりからである。高校入試をバックアップしてくださった担任団の先生方や、かつてここでつぶやいた小学校低学年当時の恩師の先生の影響があったからこそだ。しかし、小学校の頃の私の夢は本当に大きかったというか、悪く言えばよく考えていなかったというか、そんなものだった。医者になりたいという夢。しかもその動機が、「ブラックジャックに憧れたから」というもの。なんというか…考え方が幼稚だ。小学校高学年あたりだと思う。しかも、「もぐり」という言葉の意味も知らずに「もぐり!もぐり!」なんて叫んでいた記憶もある。意味不明だ。まあ、もっとよく分からないのは、小学校低学年の頃の夢が「忍者になりたい」という夢であったことだ。理由は速く走れるから。(笑)

 でも、夢を持つことは悪くない。むしろ素晴らしいことだと思う。夢や目標があれば、人はその達成に向けて努力することができる。ただ、たくさん努力したからといってその成果が必ずしも自分の満足のいく形になるとは限らない。これは後々また詳しくつぶやくことになるかもしれないが、「努力は必ず報われる」という文言はあまり正しくはない。「努力は必ず無駄にならない」と訂正した方が良いかもしれない。ただ、どんな夢であれ、叶えるために努力が必要であり、いろいろな試練を乗り越えなければならない。夢や目標の大切さを理解することは、努力の大切さを知ることと同じことなのかもしれない。

男か女か

 私の性別は男だ。それはどう覆そうとしても変わらない事実だが、時々女の子のような素振りや行動をとることがある。思えば幼い頃はあまり外で遊ぶことを好まず、家の中でお絵描きなどをしていることが多かった気がする。学校の休み時間も、体育館で友達と体を動かすというよりは、教室で友達と話をしたり、自由帳に絵を描いたり…なんてことがよくあった。友達の中でも、男の子はいたけれど、女の子と話をしていた方が安心感があるというか、高学年になってもそこまで壁を作ることがなかったというか、そうだった気がする。男の子なのに男の子らしいことができなかったり、ということもたまにある。運動神経が悪いからかもしれないが、あまりスポーツを好まなかったり、雰囲気についていけなかったり…。なんてこともあったかな。というか、今もあるかも。

 もし生まれ変わって、男か女かどちらとして生きたいかと言われたら、私は女と答えるだろう。卑猥に聞こえるし、変な話かもしれないが、違った視点から生きてみたいという思いもある。リラックマが好きだとか、ミスドによく行くとか、なんだか趣味や好みが女らしいところは、良いのか悪いのか分からないが、人はみな異なる存在であり、考え方に多様性があるとはこういうことなのだろう。

 多様性を認め、尊重することは教育現場では特に大事なことかもしれない。その姿勢は教員だけが示すのではなく、障害のある児童だったり、様々な物事に対して得意・不得意、苦手意識を感じる児童がいることを児童同士で知り、思いやる姿勢を持つことが最も大切なのだと思う。インクルーシブ教育や「居場所づくり」とはそういうことなのだと思う。私と話をしたことのある人は「女の子みたいだ…」なんて思ったこともあったりするのだろうか。気になる。

今の自分がいる証

 よく字がきれいだねと言われる。自慢じゃない…と言ったらウソになるが、私の特技でもあると思っている。これまで何十回、何百回と言われた言葉だ。でも、習字や書道を特別に幼い頃から習っていたのかと聞かれると、決してそうではない。今自分が「丁寧な字を書くこと」を長所として強調できるのは、小学校低学年の頃の恩師との出会いがあったからだと確信している。

 初めて黒板の字を見た時、当時の自分は「字というのはこんなふうに書くものなのだ」と認識したのだろう。常にお手本のような文字を板書して授業し、優しく接してくださったあの時の先生との出会いは、忘れられないものとなっている。夏休みや冬休みは、毎年のように暑中見舞いや年賀状でやり取りをしたものだ。自分のいる学校を離任した後もそれは続いた。学年が上がるにつれて、やはり周りに影響されることもあり、くせ字だとかちょっとかっこつけて文字を書くようなこともあったが、字が丁寧だという私の長所は、様々な環境で評価されてきたと思っている。今の自分を作ってくれたあの時の恩師に、心から感謝している。だからこそ、その恩返しとして、今度は私が教員となり、達筆さを生かして教育活動に励むのだ。もちろん「丁寧な字を書くこと」の大切さを伝えることも忘れない。私が書くような字を書くことができるような子どもたちを育んでいきたいと心から思っている。