FmFm(ふむふむ)の独り言

自分のことを気楽につぶやくブログです。

教採日記No.19(2021.3.29月)

※教採日記とは… 私自身が教員採用試験の勉強を本格的に始めた、2016年の秋から今に至るまでの出来事、様子を不定期に記したものである。「教採」日記とはいえ、教員採用試験の合格後も、日々の学びや教壇に立ってからの実践に生かすためにこの日記は続いている。

 

 間もなく小学校教員3年目を終え、4年目に突入しようとしている。この令和2年度は正直とてもつらい年度だった。特に11月はやるべきことと悩みが次々と重くのしかかり、非常に苦しかった。当時の思いをツイッターに連投したことがあったが、久しぶりにこのブログにも記録を残しておこうと思う。乗り越えた証として。

 

 (令和2年11月のとあるツイートにて)最近ネガティブツイートが増えている。これは私自身の現状に大きく影響している。自分の無力さや子どもたちの姿、そして彼ら彼女らへの申し訳なさから発せられてしまうものだと改めて気付かされた。

 本当はこの場を吐き出し口にしたくない。ツイッターを愚痴をこぼす場にしたくない。しかし、私にとって私の悩みを本音で吐き出せるのはここしかない。きっと、もしかすると私と同じ悩みを抱えている方がいるかもしれない。失礼だが、そんな安心感を得たいのだと思う。

 今の子どもたちとは3年目の関係である。初任で受け持った子たちを卒業させることができるという、これほど幸せなことはない。しかし、逆を言えばここまで育ててきた責任はほぼ自分自身にある。小学校生活の半分も。それが申し訳なさすぎる。

 最高学年にもかかわらず幼すぎる。当たり前のことができない。始業前の準備、係や委員会の仕事、何かに粘り強く取り組む姿勢。すべてにおいて欠けている部分があるような気がしてならない。そしてそれは、これまで受け持った私の責任であると自覚している。

 頑張っている人が認められるような学級でありたい。しかし今、そんな人達がどうでもよく扱われている気がしてならない。今日の学芸会の練習もそうだった。遅かれ早かれ学級崩壊が起きそうな予感がして怖い。そしてこの状況は自分自身が担任だからこそ生まれてしまったものではないかという思いもある。

 おそらく私が担任でなければ、子どもたちは今以上によりよい子どもたちへと成長していただろう。それも申し訳ない。~先生は~してくれたという言葉一つ一つが心にくる。自分の無力さを知る。申し訳なさを実感する。私が担任でなければどれだけ幸せだったことか。

 正直なところ、この半年で転職、退職という言葉も脳裏をよぎった。しかし、この小学校教員という夢も、なりたくて叶えた夢だ。同時にこの仕事を辞めたところでどうなるかなんて誰にも分からない。成功する保証もない。

 大学時代、アルバイトで塾講師をしていた。退職したら自分で塾を開く…?とも考えたが、無謀な話だ。アルバイトと本職とでは明らかに異なる部分がたくさん出てくる。それに、塾ではできないことをできるのが学校の教員だ。もちろんその逆もあり得るが。

 子どもたちが人を見る態度になっているのも正直なところだ。こんな子どもたちになってほしくなかったが、私のこれまでの責任だ。今より悪くならないように心がけるしかないと思う。よりよくなれば良いに越したことはないが、無事に卒業させることが一番の私の使命だと思う。

 連投申し訳ありません。でも、吐き出さずにはいられませんでした。六年担任としてやるべきことの蓄積とプレッシャーとその他いろいろなものが押し寄せている原因でもあると思います。ベストよりベターの考え方で、一つ一つ乗り越えていきたいと思います。

 

 というツイートを連投したわけだが、今、私はこの子どもたちを無事に卒業させてここにいる。何事も必ず終わりが来るのだ。次はこの卒業の話に触れたいと思う。